Kanchan(@kanchanblog)です。
高齢の患者さんを診ていると、リビングウィルというか、最期どう過ごしたいか、救命処置を希望されるか、意思確認をすることがよくあります。
元気な時に「自然死を希望している」と言われる方は結構います。
けれどそう言う方がいざ具合が悪くなった時に、「このまま悪くなって亡くなることになると思うが良いか?」確認すると救急搬送を希望されることが多いです。
慢性疾患の経過で徐々に悪化した場合、急性疾患が発症した場合、慢性疾患での余命が秒読みの時に急性疾患を併発した場合など、経過は人それぞれだと思います。
人間は「今の悪い具合」と「将来訪れる死」を結びつけるのに抵抗を感じるのだろうなと思いました。
誰だって死にたくない気持ちは持ち合わせています。
齢90を過ぎた御老人が具合が悪くなって、食事がとれない。息苦しくなってきた。となれば、冷静に考えれば寿命が近いと思えます。
1つ1つの症状、倦怠感、食欲の低下、呼吸苦などに着目すれば、診断によっては治せるかもしれない。と希望を抱きたくなってしまいます。
たとえ、主治医から「重度の心不全でいつ亡くなってもおかしくない」と説明されていても、「肺炎や胃潰瘍が合併しているのかもしれない。それなら治るかもしれない」など希望的なストーリーは魅力的に映ります。
個人的な意見ですが、死を受け入れられる人の潔さには感服します。
動機は様々です。
住み慣れた自宅で最期を迎えたい(迎えさせてあげたい)、家族に迷惑をかけたくない、社会のお荷物になりたくない。などなど。
死に方は生き方と表裏一体なところがあります。
自然死を受け入れた人の潔さには、「思い残すことは何もない」というような生きるということをやり切った人間の美しさがあるからなのかもしれません。